Header image  
Home Sweet Home  
line decor
  HOME :: Friends :: Animals ::Vehicles :: 
line decor
   
 
純さんのバイク

多分、初めて乗った乗り物って小学生の頃の自転車なんだろうけど、
それからずいぶんいろいろな乗り物を操縦してきた…
エンジンの付いた乗り物を初めて一人で乗ったのは、中学校の頃に姉が免許を取る練習の為にいとこから譲ってもらったスズキ ウルフ125だったと思う。
姉は何度目かの練習中に転んで怪我をしたのでウルフは家の前に放って置かれた。
それを夜中にこっそり乗り回していたのが最初だと思う。
(結局、姉よりははるかに上手くなった・・・・笑)

練習中に転んで足を擦りむいた姉は2輪を諦めて4輪の免許を取った。
Jeepが欲しいと言い出して、建設業だった親父が現場で使っていたJeep(もどき)を家に持って来た。
それを姉が少し乗ったけれどどうも朝の始動が上手くかからない。
でも、なぜか中学生の俺がかけるとエンジンはすぐかかる(笑)
そのうち、姉は勤め先(写真スタジオ)の社用車で通勤するようになり、これも家の前に放って置かれた。

勿論、我が家でこの車を始動させられるコツを知ってる俺が放って置く筈は無い(笑)
目覚ましだと母や姉に聞こえてしまうので、ヘッドフォンをしてベッドに入りステレオのタイマーで夜中に起きてこっそり夜中のドライブを楽しんでいた。

そんなで、結局中学生のウチに2輪で1度、4輪で1度無免許運転で捕まってる(汗)
確か14歳未満だったので記録には残らなかったらしい・・・・。

2輪の話

無免許運転で捕まり家庭裁判所少年審判を受けてから、ウルフは母親に処分されてしまった(汗)
ウルフ125が無くなってからも、友達の父親のスーパーカブを引っ張り出して来て河原で乗り回したりもしたし、
大学の工学部が近所にあり、学校際の時に校庭でDT250とDT360を開放すると高校生たちを押しのけて中学生の俺が乗り回していた。
黒タンクのDT360は当時ケッチンマシンと呼ばれていて、デコンプなんて付いていなかったし、やせっぽちの俺なんかにエンジンはなかなかかからない。
しまいに足から外れたキックでかかとを切ってしまい、当時流行っていたスエードのデザート・ブーツの中は血だまり・・・・。
それでもやっとエンジンがかかったのだから、靴の中は血だらけで乗り続けた。
とにかく、エンジンの付いてる物に乗れるチャンスがあれば何でも乗った(笑)

そんなだから、16歳になってすぐ免許試験場に行った。
でも運転には自信があったのにどうも落ちる・・・・(汗)
で、教習所に行った。
当時の2輪免許は小型(125ccまで)と大型(無制限)の2種類で、大型の教習車はCB350だった。
確か、5時間教習を3日で受けて4日目には試験を受けた。
総費用は16,000円だったと思う。
(最初の免許証はビニールカバーの2つ折りのブルーの免許証で、更新してから今と同じカード形になった)

免許を取って、ホンダCL450を買ってもらった。
高校生の俺にとってのCL450は結構な機動力だった♪
高校にもそれで通っていたし、どんなに天気が悪くても学校の帰りには必ずそのバイクでなじみの喫茶店に行っていた。
学校に通っていたどころか、よく学校から抜け出しては喫茶店に行ったり海へ行ったりしていた(笑)
夏休みには友達とツーリングに行ったりもした。
高校生の俺はガソリン代と毎日通う喫茶店代を稼ぐ為にアルバイトをした。
バイクの性能を高める為の部品代なんてとてもじゃないけど資金が無かった。
(確か、当時ガソリン代は1リッター45円位だったと思う。いつもの喫茶店で飲む紅茶はティ・ポットで出てきて250円位)

2輪にこんなに夢中になったのはひとつには映画の「イージーライダー」の影響が強かったと思う。
当時、僕の人生を変えたともいえる2つの映画「イージーライダー」と「いちご白書」
免許を取った頃はまだヘルメットは義務付けではなく着用指導だったので、ノーヘルでも切符を切られるような事は無かった。
ほぼ360度地平線の中で、対向車も無く後続車も先行車も無い一本道で、一緒に走る友達とノーヘルで道幅いっぱいに並んで走っている時はイージーライダーの画面が頭に浮かんでいた。
友達の多くはDT250かハスラー400に乗っていた。

でも、いろいろなバイクに乗り始めたのは18歳で車の免許を取った後からだったような気がする。
自分もすねっかじりの高校生で仲間も高校生の世界じゃ、何をするにも資金的に何かとリミットがある。

ZU、CB750は友達のを取り上げてしばらく乗ってた(苦笑)
その頃から、キャスターの寝てるバイクが好きだったらしい。
ヒョイと寝てくれるCBよりも、体重をかけてエイッと倒さなくては曲がってくれないZUの方が好きだった♪

友人たちがNHKのプレス・ライダーをやっていて、NHK報道部2輪控え室をまるで自分のアパートのようにしてた頃があって、NHKで食事をして風呂に入ってハンズで買い物をして、宇田川町のローソンで夜食を買って・・・・・・(笑)
まったく部外者の俺がと勝手に誰かのロッカーを開けて、
「よぅ・・・1階の風呂はちょうど大道具さんで混んでる頃だから3階の当直シャワールームへ行ってくるけど、誰かシャンプー貸してくれよ・・・」
なんて事もちょっちゅう・・・・(笑)

そんな関係でプレス・ライダーの経験なんてまったく無い俺が共同通信のプレスを少しやった・・・・
共同通信のライダーはみんな頭のネジが3本以上外れてる(笑)
そんな彼らのライフスタイル(価値基準)が大好きだった♪
その頃、紫の共同通信の社旗を立てて、ひざをこすって走ってたのが下のXJ650改チョッパー。
こんなバイクでプレス・ライダーをやってた僕も、他のプレスから「共同通信はやっぱり頭のネジが外れてる・・・・・(汗)」と言われてたけど(笑)

共同通信のプレス・ライダー達は片岡義男さんの小説によく登場する。
確かに俺も何度か空を飛んだり桜田門前の交差点で腹ばいで地面を滑走したなんて経験も有るけど、やっぱり共同通信プレスの連中の価値観が好き♪
オートバイ乗りはやっぱり利口じゃないと思う(笑)
勿論、俺もそう・・・
利口に要領良く生活するには電車やタクシーが一番だもの。
東京のように渋滞がひどい街ではバイクは確かにある意味「便利」かも知れないけど、
荷物はほとんど積めない
人も最大で2人しか乗れない
雨や風、雪に弱い
衣類は汚れる
髪も乱れる
怪我をする危険性は高い
ただ停めて置くだけだって
盗まれる確率も壊れる確率も4輪よりははるかに高い
こんな乗り物が「好き」な奴なんて利口じゃない(笑)

他にバイクを職業にしていた頃というと、(旧三好、現山村)礼子さんの店の店長をしていた事がある。
この時は本当に寝るひまが無かった・・・・・
当時の彼女は雑誌も何社かの記事を書いていたし、FM東京のDJや確かアグネスちゃんの曲の作詞もしたし、そりゃ忙しい日々だったはずなのに彼女は人の何倍もエネルギッシュだった。

礼子さんの店の店長を辞めて、共同通信のプレスも辞めて、暇になっていきなり思いついて沖縄に泳ぎに行った。
その時もこのBike・・・・・
ある秋晴れの日、あまりに天気が良いので海に行きたくなった。
でも、もう9月に入った関東じゃどこの海へ行ってもちょっと肌寒いかも知れない。
『沖縄ならまだ泳げるかも♪』そう思い立ってバックに荷物を詰めて走り出していた。
一気に走るとつまらないから軽井沢を抜けて新潟、新潟から舞鶴、京都を抜けて岡山から鳥取・・・・とジグザグに走って鹿児島からフェリーで那覇へ・・・・・・。

軽井沢を抜けて新潟から富山方面に走ってる日本海側では土砂降りだった。
仕事で走ってた時以外は、基本的に雨具を付けずに走る僕は下着からブーツの中までずぶ濡れだった。
それよりも困ったのは剥き出しのエア・フィルターが水を吸って1時間も走らない内にブスブス調子悪くなってしまう。
体中冷え切って、氷のように冷たくなった手でキャブを被いながら走った。

予定も行程も決めずにただ走り続けて、夜になったらガソリンスタンドの軒下でバイクの脇に転がって寝た。
ある朝、目がさめたらガソリンスタンドが開店していておじさんが水撒きをしてた・・・・(汗)

ずうずうしく「すみません・・・・顔を洗わせて下さい」って、中に入っていったら
「あんた、夕べはこんな所で寝たんか?」
「まぁ、お茶でも飲んで暖まってから出かけなさい・・・」って、
お茶をご馳走になりながら肩よりはるかに長い長髪で、あちこちリベットを打って袖を落とした皮ジャンに黒の皮パンツ、金具がガチャガチャうるさいごついブーツの、どこからみてもヤバそうな僕が平和な田舎のガソリンスタンドのおじさんと向かい合ってお茶を飲みながら世間話・・・・(笑)
人って、心が通じていれば見た目や生き方だけが全てじゃないんだよね・・・・♪

鹿児島で那覇行きのフェリーを待ってる間に、銭湯に行った。
隣にはなんとコインランドリーがあって、ひと風呂浴びながら同時に洗濯も出来た♪

沖縄はもう9月の半ばだというのに期待した通りでまだ充分泳げた♪
有料のプライベートビーチはあまり似合わないので、走っていて気に入った場所が見つかったら道端にバイクを停めて泳いだ。(画像はオキナワ・グラフ84年11月号)


3日ほどして、そろそろ帰ろうと思ったんだけれど次の東京直行のフェリーが3日後だというので、ブラブラと暇つぶしをしていたら、空軍の兵士たちと友達になった。
仕事が明けた彼らが大きなクーラーボックスにバドワイザーを詰め込んで、僕がのんびり景色を眺めていた岬の駐車場にやって来た。
ハードロックをガンガンにかけて、軍服姿で次々とバドワイザーを空けてる彼らを見ながら、内心では『やべぇ・・・からまれたらどうしよう・・・・』とドキドキものだった(笑)
ねずみ花火やロケット花火をあちこちに放って騒いでいる彼らの花火が僕の横をかすめて抜けていった。
一瞬双方に緊張の空気が流れて、彼らの1人が僕の方に歩いて来る。
『絡まれても仕方ないよなぁ・・・・こんな格好して粋がってるんだもんなぁ・・・・』と、
肩よりもはるかに長い長髪で、あちこちにリベットを打ち付けて袖を切り落とした皮ジャンに皮パンツ、役に立たない金具が一杯付いた高田商会の安物のモトクロス・ブーツを履いた、長髪のマッドマックスみたいないでたちの僕は覚悟を決めて軍服姿の兵士が近づいて来るのを眺めていた。
僕の目の前まで来た兵士は無表情で右手を僕の前に黙って持ち上げた。
彼の手にはバドワイザーが握られていて、僕は彼の手の中のバドワイザーと彼の顔を交互に見た。
「花火のお詫びに・・・・・」
彼は一言だけそう言って黙って僕の顔を見てる。
「Thank you」と言ってバドワイザーの缶を受け取ると、彼はやっとほっとした顔をして
「なぁ、良かったらこっちに来て一緒に飲まないか?」と人懐っこく微笑んだ。

「なぁ、お前どっから来たの?」
「本当に日本人?俺たちお前みたいな日本人見た事無いぜ・・・・」
「これからライブハウスに行くんだけど、一緒に行かないか?」
「どこに泊まってるの?野宿?じゃ、俺たちのベースの宿舎に泊まって行けよ♪」

その日がきっかけで、それから僕は何百人かの海兵隊や空軍や海軍の兵士たちと過ごす事になった。
Yナンバー(軍人所有車)の車を乗り回し、ゲートのMP達も顔見知りだし、Kadena Hiltonとニックネームで呼ばれるSP(空軍警察)の寮に泊まった事も何度かあるし、Sea beeと呼ばれる海軍特殊部隊(Navy SEALの前身)の連中とは大の仲良しになった♪
家族ぐるみで付き合う友人や、別れを惜しんで涙で帰国を送った友人も何人も居た。

1週間位のつもりで泳ぎに行ったOkinawaだったのに、気がついたら1年経ってた・・・・(笑)
ここには書き切れない長い深い1年だった。
その間、ずっとこのBikeと一緒に生きてた・・・・(苦笑)

そのままいつまでも沖縄に居てもキリが無いので、東京に帰る事にした。
世田谷のアパートは友達に頼んで引越しを済ませてもらってたから、厚木の山奥の実家に戻るのに、フェリーで晴海まで50時間揺られて行った。

牧港のフェリーターミナルで、敬礼で見送ってくれる友人達に僕も涙をこらえながら敬礼で返していた。
直立不動の彼らが見えなくなって、真っ青な海の上を滑るように進むフェリーは、砂辺の防波堤、空軍カデナマリナ、陸軍トリイ・ビーチ、真栄田岬、満座毛・・・・と、僕が1年間過ごした沖縄を走馬灯のようにゆっくりと写し出していた。
でも僕の目には、砂辺の防波堤や真栄田岬だけではなく、防波堤に座り込んでいる僕や、真栄田岬でバイクにまたがっている僕も見えていたような気がする。
目に映る普通の景色が3Dの世界なら、その時にフェリーの甲板で僕に見えていたのは、時間軸も足されて奥行きのある分厚い景色が見えていたように感じた。

50時間(つまり丸2日以上)見えるものは、青い海と空と、夜は満面の星空・・・・・だけ。
同じフェリーにはオートバイ雑誌から抜け出たようなツーリングの若者達が何人か乗っていたけれど、彼らからも僕からも一言も言葉は交わさなかった。
僕は誰とも話をしたくなかったし、彼らから見た僕はあまりにも世界が違ったのだろうと思う。
フェリーに乗っている50時間、僕は誰とも言葉を交わさず、ずっと1人で海と空を見て居た。

晴海に着いて、勝鬨橋を渡って首都高に乗ったら空はどんより曇って首都高には車がいっぱいで渋滞していて・・・・・
『あぁ、またこの街に戻ってきたんだ・・・・ここで一生暮らすのかなぁ・・・・』と思うとなんだか人生がつまらなく感じた。
『アメリカに行こう♪』と、
晴海埠頭からフェリーを降りて実家のある厚木に向けて首都高を走ってる間にそう決めた。

4ヵ月後に僕はでっかいバッグを抱えてロスアンゼルス空港で「観光♪」と虚偽申告しながら入国していた(笑)

--------------------------------------------------------------------------------

4輪の話
最初の車はスカイラインのステーションワゴンだったと思う・・・
グロリアやマークUに乗って、一番車を多く持ってた時は20代半ばの頃で同時に117クーペとライトエース改、マスタング(ギアU)の3台を持ってた頃もある。
とにかく走った。
眠れない夜はわざわざ外へ出て家の前に停まってる車の中で寝たりもした(笑)
(日本での4輪の話は、続く・・・・でもあんまり公表出来ない話が多いんだよなぁ・・・・(汗)

大型トラック
長髪でヒッチハイクで旅をしていた頃に、いつも道端の汚い俺を拾ってくれるのは長距離の大型トラックだった。
それも、拾ってくれるだけじゃなくて
腹ペコの俺を察して何も言わずにドライブインに止ってくれたり、
金の無い俺に黙って俺の分を払ってくれたり
自分は散々運転して疲れているのに俺には荷物の積み下ろしどころか窓拭きすら手伝わなくて良いと言う。

自分の職場(トラックの中や国道)と仕事に対しての彼らの姿勢だけじゃなくて
とにかく生き方そのものにあこがれた。
彼らも決して利口な生き方じゃない(笑)
でも、心の中は広くて深くてそしてとってもやさしくて・・・・・
小僧の俺には道端で情けなく親指を突き出す俺を拾ってくれる長距離トラックの運転手さん達は
とにかく大きくて広くやさしい心を持った、男の世界のかっこいい人達だった。
理想の世界だの、原始共産制だの、反体制だの、口ばっかりで
ちょっとした事におびえて
ちょっとした人間関係に嫌気がさして
ちょっとした事で不安になって
そんな自分がとても小さな人間に思えた。

父親の会社で仕事をしたり、フォトグラファーの姉の仕事を手伝ったりしたけど、
やっぱり諦めきれないので普通免許で乗れる4t車の近距離輸送を半年くらい乗った
一度乗ってしまうともう歯止めが利かない(笑)
半年過ぎると日産(UD)の11t保冷車で全国を走り始めた。
その11t車に半年乗って、結局いつの間にか一番大きな大型トレーラー(14輪)の免許を取っていた(笑)
トレーラーはいすゞ・Hino・Fuso・日産(UD)趣味の様に全機種乗った。
自営もしたし、フリーのドライバーみたいな事もやった。
トレーラー・ヘッド(トレーラーの頭だけ)を自家用車代わりにしてスーパーに買い物に行ったり、
空の保冷トレーラーを川崎の埠頭に引っ張って行ってトレーラーの中でバイク仲間達と宴会をした事もある(笑)
大型トレーラーで全国を走ってる奴はそんなには多くは居なかった時代だったし、全国を走る長距離トラックの仲間の中では多少は名の知れたトレーラー乗りだったと思う。

やっぱりね、「男の世界」だったよ。
武勇伝やお涙話や、心温まる話や、つらくてつらくて涙が出るような時の話や、
話題には事欠かない日々だった(笑)

僕がコミューンを回ってヒッチハイクで旅していた頃、
夜中の国道をトボトボと疲れた体で歩いていた。
後ろからトラックのタイヤが唸る音が近づいて来たので、諦めながら親指を突き出した。
僕の横を風を巻き上げながら通り過ぎていった大型トラックのブレーキランプが50m位先で赤く光った。
その後、コンコンコンコンとジーゼル独特のアイドル音を漂わせてオレンジのウインカーを点滅させながら道端に静かに停まっている。
「あっ、俺を待ってくれてるんだ!」そう気が付くと、全速力でトラックに向かって走って行った。
助手席のドアが開いて、僕が下から自分の荷物を押し上げると荷物はすっと軽くなって助手席に吸い込まれた。
僕が「ありがとうございます♪」と言いながら助手席に座るか座らないかのうちに僕と運転席の間のギアがガガガッと音を立てて、トラックは何事も無かったかの様に発進し始めた。
しばらく無言の時間が続き、無口な30代の運転手さんがやっと
「どこまで行く?」と声をかけて来た。
「あっ・・・・北海道まで・・・・」
「俺は青森までだ」
「青森で良いです。よろしくお願いします」
それから2時間ほど無言の時間が過ぎて、トラックは突然砂利を敷いたドライブインの駐車場に入った。
「メシ・・・・食うぞ」ドアを開けながらそういう彼に
「あのぅ、僕おなか空いてないんでここで待ってます」と言うと
「良いから来いよ・・・・」と言われて僕はしぶしぶトラックを降りた。
席について「何にする?」と尋ねられた僕は、実はお腹が空いていないのではなくて、金が無かった。
壁のメニューから一番安い「掛けそば」を選んだ。
そうすると彼は
「そんなもん食ってて旅が出来るかよ・・・・」と初めてきつい口調で僕にそう言い、
「こいつにカツ丼、俺はコーヒーだけで良い」とウエートレスに注文していた。
彼は道端で拾った見ず知らずの僕にご飯を食べさせてくれる為にこのドライブインに停まってくれたのだった。

ヒッチハイクで乗せてもらった長距離の運転手さんたちに「お礼に何か手伝う事有りませんか?」と尋ねると、決まって
「あんたが出世した時に、いつかどこかで会ったら今度はあんたが俺の面倒を見てくれよ♪」
そう言って笑い飛ばされたものだった・・・・・。

ある時、自分が運転しているトラックが狭い国道4号線でハブボルトが3本ほど折れて道端で立ち往生した。
季節の変わり目で、工場でタイヤ交換をした翌日でインパクトレンチの圧力が弱くてキチンと締まっていなかったらしい。
『おかしい・・・・』と気づいた直後にはダブルタイヤの内足と外足の両方が畑の中に飛んで、ドラムを地面にこすりつけて傾いて停まっていた。
外は土砂降りの大雨。
一旦外に出たけれど、クレーン車で持ち上げでもしないとどうにもならない。
真夜中だった。
どうする事も出来ないので、非常灯を点滅させながら朝まで待つ事にしてベッドに入って休んだ。
疲れていたので5分もするとウトウトしていた。
突然、窓をコンコンと叩く音がして目が覚めた。
『地元の警察かな?』と思って起き上がると、他の長距離トラックだった。
「よぉ、どうした?パンクか?手伝おうか?」そう尋ねる彼に
「ハブボルトが飛んじまって、クレーンを呼ばなきゃ持ち上がらないから・・・・」と説明すると
「気をつけてな」と彼は去っていった。
それから更に10分か15分もすると、また別な長距離トラックに声をかけられた。
結局、それは朝まで続き道端で非常灯を点滅させて立ち往生している僕に一体何人の見知らぬ長距離トラックが声をかけていったか判らない。
外は土砂降りの雨。
真夜中で僕も疲れていたし、きっと他のみんなだって僕と同じくらい疲れていたはず。
『やっと運転しているくらい疲れている時に、この土砂降りの雨の中で道端で立ち往生している見知らぬ長距離トラックを見かけた時に、俺もこうやって「パンクか?手伝ってやろうか?」と声をかけられるだろうか?』
そう思うと自信が無かった。
「手伝ってくれるんか?助かるよ」もしそう言われたら、この土砂降りの中で1時間以上は見知らぬ他人のタイヤと格闘しなくてはいけない事になる事を覚悟でみんな自分の事で精一杯疲れているのに、何人も何人もの長距離のトラッカーが声をかけて行ってくれた。

やっぱり長距離のトラック乗りも「利口な生き方」じゃない(笑)


大型建設機械
沖縄から帰って来たその日に「アメリカへ行こう」と決心した後は
手っ取り早く金を作る為に、親父の紹介で建設現場の作業員のアルバイトで使ってもらった。
とにかく手っ取り早く金になれば良かった。
でも、毎日そばでバック・ホー(穴掘りバケット)が作業しているのを見てるうちに自分で動かしてみたくて仕方なくなった・・・・(笑)
昼休みにこっそり動かしてみたら両手両足を使ってロボットを操縦してるみたいで面白かった♪
3日位続けて昼休みに遊んでたら、
「午後からそれで仕事するか?」と言われて、それから毎日バックホーを操縦して仕事した(資格が無いので違法ですけど時効でしょ・・・・汗)

旋回しながらアームを伸ばしながらバケットを折りたたんで・・・・って、
思い通りに動かそうとすると両手両足+ひじまで使わなきゃいけなくて、こりゃ面白いし奥が深い(笑)
昼休みにはブルドーザーとか、フォークリフトとかショベルとか他の建設機械で遊んで、結構楽しみながら金を稼いだ♪


アメリカ
航空券を買って残った$2,000(当時1$=\220)を持ってロスに着いた。
3日目で中古車屋さんで、$800のフォード・グラントリノ(刑事スタスキー&ハッチの車)を買って、その車でその週に免許を取りに行った。
でも、日本に居た時はなんとか稼いでいたから金にはあまり不自由してなかったけど、ロスに着たらとにかく金が無かった・・・・(汗)
仕事だって全く当てが無いし、持ってきた$2,000はどんどん減る一方。
1週間後に、そのグラントリノを売って貰った中古車ディーラーに戻り
「あのぅ・・・ぼく車直せるんですけど雇ってもらえませんか?」と尋ねたら修理部門のBossを紹介してくれた。
「今、ここで簡単な履歴書書いてくれるか?」と言われ、それにチラッと目を通すと僕に
「窓の外にサニーがあるだろ?」
「Water Pumpが駄目なんだ。これが新品パーツだから交換してみろ」
と言った。
サニーのWater Pumpなんてどこに付いてるのかも知らなければ、まして交換した事なんて無い(汗)
でも新品のパーツを渡されたので、それと同じ物がどこかに付いているはずだし、とりあえずボンネットを開けて同じパーツを探した。
Water Pumpを見つけて、
『これを外すには、まずファンベルトを外して・・・・ラジエターも邪魔になってるし・・・・・』と1人であれこれ考えて、まぁとにかく交換してエンジンをかけたら水漏れもしていないししばらく回していても水温も平常♪
Bossにチェックしてもらったら、
「明日から9時に出社してくれ。給料は毎週金曜日。今日は2時から付けておくから・・・・・」
そう言われて、アメリカで初めての職が決まった。

ある日職場に「エンジン焼き付いてるんですけど・・・$200位で買ってもらえませんか?」と
日本人学生がヨシムラの付いたZUを持ってきた。
本人は「エンジン焼き付いてるんです」と言うけど、キックしてみるとちゃんとクランクする・・・・(笑)
$200で買って、$50でイグニッションコイルを交換したらちゃんと走った。(騙した訳じゃないよぉ・・・・汗)
ガソリン代を気にしながらぼろぼろのグラントリノに乗っていた生活にまた機動力が増えた♪
(そういえば、この頃のカリフォルニア道交法はやはりヘルメットは義務付けじゃなかった)

そのアメリカに来て初めて買ったグラントリノは、ある日高速の出口で「ガラガラガラ・・・・!!!」という大きな重い音と共にエンジンが逝った(クランクシャフトが逝った)

行き付けのラーメン屋さんの店員が、クライスラーのコルドバを$500で売ると言うので、すぐ買ってリアのショックをAirのリフト・アップに付け替えて一杯までリアを持ち上げて、さらにスプリングにシャックルをかませて、リアバンパーが普通の車のボンネットの高さ位までヒップアップにして、フロントはナンバープレートがこする位まで落とした・・・・(笑)

CordovaとZUとを通勤用に使い分けながら、ある日道端の中古車屋でJunkに近い1970年キャデラックのオープンを見つけた・・・・。
屋根は開いたきり閉まらない、シートからスプリングは飛び出てる、勿論塗装はガタガタ、バッテリーは上がってたけどジャンプしたらとりあえずエンジン(500ci =>8,000cc)は良い音をしてエンジンが回りだした♪
値段は$980。
レストアする金も無いのにとりあえず買ってきて、それから週末にアパートの駐車場でコツコツ直した・・・・

シートを張り替えたり、屋根を直したり、足回りのブッシュ類を全部換えたり、勿論塗装もした・・・・・
エキパイはマニフォールドから、ほとんどストレートで後ろまで持ってきたから、片側のテールパイプから4,000ccずつの排気がストレートで後ろに出る。
駐車場に入ると、排気の振動でそこら中の車の盗難防止アラームが鳴り始める(苦笑)
少なくとも、車の大きさと排気音だけは、「8,000ccですぅ!!!」と自己主張してた(笑)

アメリカに住んだらいつか乗りたいと思っていたバカでかいオープンカーは、このあと10年以上僕と一緒に暮らす事になる。
(この後10年以上僕を悩ませ続けたとも言える・・・・・苦笑)

Cordovaはエンジンからオイル漏れしていたのを放っておいて、外気温45℃を越える暑い日に高速から下りて信号で止まったらいきなりエンジンルームから出火・・・・・見事に焼死してしまった・・・・・(涙)
この時はちょうど山の射撃場に行く途中で、トランクにショットガン・ライフル・22リボルバー・357Mag・9mm、弾の合計1,500発位を積んでいた。
高速から降りて、交差点で停まったらエンジンがプスンと止った(汗)
エンジンをかけようとしてもスターターも回らない。
で、降りてボンネットを開けると、エンジンルームの中でくすぶっていた煙が酸素を吸って一気に炎になって俺の目の前で立ち上がった(汗)
とりあえず、火を消すよりもまずは慌ててトランクからガン・ケースや弾薬ケースを降ろし始めたけど、とにかくガンケースが3つに重たい弾薬ケースが2つ・・・・。
ふと周りを見ると、他の車はずーっと後ろで止って俺のまわりには誰も近寄って来てくれなかった・・・・(苦笑)
たまたま近くに消防署があって、気がついたら消防車が隣に止って車の上からホースでブワーッと水をかけられて鎮火。
でも、Cordovaはそのままレッカー車でジャンクヤードへ・・・・(涙)

通勤や普段の足に使っていたこの(見た目だけ)超Hot Rodが焼けてしまったので、
友人の紹介でSpitFireを買って来た。
ハードトップとソフトトップの両方が付いていて、4速+副変速機付き(つまり8速)のこの1,800ccの2シーターは、MGや今のMiyata(ユーノス・ロードスター)なんかよりもずっと小さくて、低くて、軽くて、ゴーカートのような車だった♪
写真を撮っていないのが残念。

[Back to Main Page]