第18話 日本で霊と一緒に暮らしていた話(長い前置き)

今で言う、登校拒否とかそう言った問題では無かったのですが・・・・。
僕は勉強がしたかったから学校を中退したと皆に言い続けてきたけど「下手な言い訳」と笑われて来ました。

僕が高校生だったのは、70年代の前半でした。
その少し前、アメリカの反戦運動や黒人人種差別、女性人権運動が日本にも飛び火し始め、 日本の学生達も学生運動に忙しい頃がありました。
僕が育った北海道では、北大の学生運動が一番過激だったようです。
そして、大学生の学生運動が高校にも進み、 その頃は「北大の弟分」と呼ばれていた札幌の高校が大学並みの学生運動をしていました。

中学生だった僕がある日、その高校の前を通りかかると、生徒会による学校のロックアウトが行われていて、機動隊と報道関係者が学校を囲んでいました。
教頭を校長室に軟禁し、生徒会長は報道陣のカメラの前で校長に「あなた達が行っているのは、教育ではなく管理だ」という内容の質問を投げかけていた。
どの質問にも校長が明確に答えられずにいたのがとても印象的でした。

時代によって課題は違うのだけれど、その頃生徒会が学校側に問いかけていたのは、「学校がなぜ生徒の服装や頭髪を規制するのか?」と言う内容が主だったと思います。

内容に共鳴した事は勿論だけれど、それよりも大人に対して堂々と自分の意見をしかも筋道を立てて発言し問い詰め、 更に武力には武力で、論理には論理で立ち向かって行こうと言う毅然とした高校生達に僕は羨望を含めあっけに取られて見ていました。

今も同じだろうけれど、僕らの頃は特に高校進学の志望校は、担任に成績で半強制的に振り分けられていた頃です。 殆どチョイスは無かったけれど、

僕の成績はその、学生運動が盛んだった高校だった(もっともその上のレベルは東京の学校しかなかったけど)

僕の中学校時代の友達で鑑別所に送られたのは男8人女3人居て、そのうち3人が少年院送付になり、僕の親友は卒業式を少年院で迎えた。
しかも、学校の平均偏差値は確か教育大付属中学を除いて北海道(少なくとも札幌)一位だったと思う。
街一番の不良の集団で、同時に街一番の秀才校だった訳です。

そんな白と黒が入り混じって両極端な中学校から、「秀才しか居ない高校」へ進学した事になります。
学生運動後の僕が入学した時には既に制服が廃止され、頭髪は勿論自由、免許さえ持っていればオートバイだろうと自家用車であろうと(高校3年生は18歳ですよね)好きな交通手段で通学できる学校でした。
時間割りは自分で組み立てたものが多く、空いた時間や昼休みには(時には授業中も)生徒達は自由に学校敷地外へ食事や買い物に出かけていた。

でも僕は、「確かに自由だけれど、何かが違う・・・」そう感じていた。
実際、「公立北大予備校」とまであだ名が付いていました。
生徒達が見ていたのは全国模試と偏差値だけだったような気もする。
まるで予備校だった。(とは言っても僕は予備校へ行った事は無いけど・・・)

長髪にオートバイで通学していた僕は、いつもあちこちのロック喫茶に入り浸っていました。
ある日、友達と行った喫茶店に入って普段はなににも物おじしない僕が、ためらってしまった。
とにかく入り口を一歩入ると異様だった。

コンクリートの壁には畳が打ち付けられ、床や天井はコンクリート打ちっぱなし、テーブルや椅子は自然公園のベンチのようで、2m程のバックロードの箱に入った剥き出しのJBLとPAシステムは殆どコンサート会場並み。
テーブルの花が音で揺れ続けて今にも花瓶ごと倒れそう・・・。
多分、ディスコでもここまでの音量は出さないだろうと思った。
働いている人達は、腰まで届くような長髪で、しかもかなり履き込んだジーンズにこれまた年季の入ったネルのシャツ。

けして洒落た店では無く、「怖い・・・」とさえ思った。
その異様さが不安につながった。
いつも洒落たロック喫茶に通っていた僕の友人達はもう二度と来ないと言っていたけれど、僕はその異様さに惹かれてその後も何度か足を運んでいました。

そして、そのうちそこの異様な常連客と話をするようになって行きます。
ジャニスやハッピーエンドを聴きながら聞く、インドの話、コミューンで暮しの話、仲間達が集まって開催した野外コンサートの話(しかも有名なミュージシャン達が殆ど無料で出演)、若者達で作った自給自足の村の話、自費出版の本の話、ヒッチハイクの心細さの話、野宿の時の夜の話、・・・・ 何もかもが新鮮だったし、どれもこれも驚きだった。

その店自体が、ヒッピーや、売れないミュージシャンや、自称画家や、旅人達で埋まっていて、そこで働いている(共同経営してる)人達も同じ人種だった。
「今日はここに居るけれど、明日は旅に出るかも知れない」そんな人達だった。
そして、学生にもサラリーマンにも旅人にも公務員にも土方にも主婦にも、誰に対してもマインドはとてもオープン。

17歳で温室でいきがってた僕は、もっともっといろんな事を知りたいととても強く思い始めました。
もっともっといろいろな世界を見たいと思った。
それから、僕はそこの喫茶店に入り浸るようなり、殆ど学校へは行かなくなったし、家にもあまり帰らなくなりはじめました。
そしてとうとう両親に、自分はもっと自分の目で世界を見たくて、もっといろんな事を自分の肌で学びたくて、だから学校へ行ってる時間は無いので退学したいと言ってみました。
父親は僕が子供の頃から「自分の人生は最終的に自分が責任を取るのだから、自分がで決めなさい」といつも言っていた。
その時も、「お前の人生なのだから・・・」とそれを許してくれました。
「ただし、学生という特殊な立場を放棄するなら、自分の生計も自分で立てて行きなさい」と言われ、学校を辞めたら、一人で旅に出る旨も伝えた。

友人達は、「あの学校にお前が入学した事で試験に落ちた奴の事を考えてみろ・・・。そいつらを蹴落として進学したのだから中退なんて出来ないだろう」と言う奴もいた(きっとそいつは他の受験者を「蹴落として」入学したのだろう・・・)

彼らには「正直言ってあの学校(生徒達)には落胆したけれど、あの学校へ行って自由があったからこそあそこの喫茶店の人達と知り合う事が出来て、そしてこういう結果になった。
もし僕が他の学校へ行っていて、毎日ラグビーに精を出していたらきっとこういう事も起きなかったと思う。
だからこれは僕があの学校へ進学した事によって起きた人生なんだよ・・・」と、言って別れた。

それから僕はヒッチハイクで旅を続けました。
あちこちのコミューンで世話になり、議論し、歌い、飲み、語り、そしてまた旅を続けた。
夜中の国道で、寒さと疲れと空腹と不安を背負ってひとりとぼとぼと歩き続け、 後ろから聞こえるタイヤとエンジンの音に立ち止まり親指を立てる。
通りすぎる車のテールランプをながめながら、またとぼとぼと歩き始める。
そうやって続ける旅で、長距離のトラックの運転手さんにいつも世話になった。
世話になったというよりも、男気を教わったし、人情ややさしさや強さや暖かさを教えてもらった。

僕らのような箱庭からやっと出てきた奴ら(ヒッピー達は意外と元有名校の優等生が多かった)の唱える理想論なんて、この人達の前ではドッグフードしか食べた事の無い室内犬が山で迷って野生の狼に守ってもらってるようなものかも知れないとも感じながら、いつもいつもいろんな長距離トラックの運転手さんに乗せてもらって旅を続けた。
20年以上経っても忘れられない恩が沢山あります。(乗せてもらっただけでは無く、いろんな意味で一杯世話になった)

時代は進み、全国に沢山あったコミューンはどんどん解体して、売れないミュージシャン達は有名人になり、インドをさまよった求道の若者達は母になり、父になっていった。
そして、みんな妻や彼女や子供との生活を守る為に、髪を切りアパートを借り、毎月給料袋を持ちかえるようになって行った。

なかなか霊の話が始まらないと思っているでしょう?
実は僕も今、思い出した・・・これは霊の話だって事を・・・・(~_~;)
長い長い前置きで、18話終わります・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(*_*)
早く19話書かなきゃ・・・でも疲れちゃった。

 

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