第21話 科学的立証
世界中の多くの大学教授、医学博士等の科学者、学識者達が霊や死後の世界や転生についての研究を続けており 既に、一部の領域では前世、霊、生まれ変わりといった事は、「不思議な事」ではなく、「当たり前の事」になっているという事をある日本の大学教授のインターネットサイトで知りました。
このページの一番下にそのページへのリンクを付けました。
世界中の多くの医学者や科学者の間では、肉体以外に人間の存在が認められており、 実際には、人間(個?)の存在は、肉体ではなく、非物質的な何か(魂、心、精神、霊、いろいろな呼び方があると思います)にあり、この非物質的な個(魂、霊)は、物質(肉体)を仮の宿 として何度も現世を体験している(し続ける)という所が大まかな説です。
この論文を読んで、無学で無知で無教養な私自身が、以前にMSNの笹塚茶屋と言うファーラムで事ある毎に書き続けていた内容(私自身の私自身への仮説)とあまりにも酷似しているので驚きました。(是非ともこの教授の論文をご紹介したいですね)
私自身の(私自身への)仮説は 人間は魂(仮称)を磨く為の修行の場として、肉体や物質、時間という制約のある「この世」でいろいろな経験を積み、死後、時間にも肉体にも物質にも制約されない(だからこそ、苦悩や欲も存在しない)あの世(仮称)で反省し、また至らなかった部分の修行としてこの世に「修行の為」に戻ってくる。
何度も何度もそれを繰り返し、修行の必要がなくなった磨き上げられた魂が各種の宗教で「神」と呼ばれる存在なのではないだろうか?だから、われわれ自身が神の予備軍(見習い)と呼べると思う。
そして、(これは僕の個人的な仮説で上記教授の論文中にはありません)いつかは誰でもが神(仮称)になれる(筈)ですが、同時に、神になるという事はひとつになると言う事ではないかと・・・。
つまり、「不純物の無い純粋な水」を神に例えると、水は「ひとつ」「ふたつ」ではないはずです。
大海原の水も、波になって海岸に打ち上げられた水も、そこからバケツで汲まれた水(つまり、大海原から分離した水)も、大海原に戻ればひとつ(?)の水の塊になると思います。
その2つの違いは、不純物が含まれた水か、不純物の無いH2Oかと言う事だと思うのです。
多分、不純物があるうちは、全体(神?)に合流できないのじゃないかと・・・。
不純物が取り除かれて、全体(神?)に合流した一滴の水(個人)は、もう一滴の水ではなく、全体の一部になるのではないでしょうか?そして、一度不純物が取り除かれた水は、全体から分離して一滴の水になっても、全体と何ら変わりない水であるはずです。
ターミネーター2で、あの悪役のサイボーグ(?)がいろいろに形を変えたり、分離したりしますが、溶けて分離した一滴も、彼(?)自身なのですよね。
頭や腕、足という「形」が無い以上、分離したものは単なる「全体の一部」ではないと思います。
分離したものも「彼そのもの(全体)」であるはずだと思うのです。
違うとすれば質量の違いだけでしょうが、質量に意味が無いとすれば、同じ成分の少量は、大量のそれと何ら変わらないはずです。
つまり、一滴の海水と太平洋の海水が、成分が同じであれば、それらは「一部」「全体」ではなく、「同じもの(ひとつのもの)」だと思います。
動物だから、「頭が僕自身で、腕は僕の一部」という感じ方になってしまうのだと思うのです。
金太郎アメはどこを切ってもどれも同じ金太郎アメです・・・(ちょっと例が変?・・・苦笑)
本来の魂には、欲や嫉妬や怒りや痛み苦痛そして快楽というものは存在せず、真っ白(あるいは透明)なもので、それにいろいろなコケ(腐食、カビ、付着物)が付着して本来の真っ白(透明)な魂を覆ってしまってい る。
その付着物を取り除く修行が「この世」での修行なのではないか?
僕はいつもそう思っていました。
そして、全ての付着物を取り除かれた(磨き上げられた)魂は、もう「修行」の必要は無く、真っ白なまま(欲も、苦痛も、苦悩も、そして快楽も、情熱も、興奮も無い、波立たず静かなナチュラルな状態)なまま、あ の世(仮称)にとどまるのではないだろうか? そして、それ(付着物の無い真っ白な状態になる事)が、われわれの最終の目標なのではないだろうか?
そう思い続けていました。(そりゃ時々は忘れて、嫉妬したり、怒ったり、欲張ったり、しっぱなしでしたが・・・)
本来この世(肉体のある修行の場)から、あの世(無機質な精神の世界)へトランジットしなくてはいけない魂が、トランジットしそこなっている状態が、幽霊と呼ばれる存在なのではないかと・・・。
そして、肉体から魂が抜け出してしまって幽体離脱。本来は修行の場では使うべきではないテレパシー(肉体のないあっちの世界では言葉でのコミュニケーションは取らないはずですから・・・)。
それによって、虫の知らせや第六感、身内の霊が死ぬ時に挨拶に来た、テレパシー、幽体離脱、それらの多くの事柄が大体解決がつきます。
そして、やはり僕の仮定でこれもいつも書いていたのですが、
僕らの「修行としての人生」は既に誰かによって決められているので、そこから逃げようとしたり、より良い(と単に「肉体を持つ本人」が勝手に思うだけの)人生を築き上げようとしてジタバタすればする程ゴールへ遠くなってしまい、本当は僕らは小川の流れに身を任せる(意思を持たない)小枝になる事が大切なのではないだろうか?
その仮説に対しても、いろいろな教授や博士達が同様の研究結果を発表しているようで(前出の日本の大学教授の論文より)、この一致にも驚きましたが、これによってもうひとつ気が付いた事は占いというのは、「まだ来ぬ将来」を見るのではなく、「もう既に決められた修行のストーリー」を読むのではないだろうか?という事です。
デジャブについてもこれで解決がつくような気がします。
僕は、この世の事を、既に決められた修行の為の「劇」と呼んでいました。
これがビデオのようなものだとすれば、既に何度か見た事があるのかも知れません。
これは、僕自身の勝手な仮定ですが(前出の教授の論文にはありません)、僕はもう何度も「都築 純」を経験しているのかも知れないとも思っています。 つまり、時間と空間の概念がこの世のものだけだとすると、前世が過去とは限らないはずです。
しかも、横の広がり(空間の概念)も無いはずですから、都築 純を何度も(平行して)繰り返しても無理は無いはずです。
その場合、僕の魂は同時に2つ存在するのでしょうか?
時間の概念が無いという事は、今ロスに居る僕と同時にまだ沖縄の基地に居る僕が存在しても、それは時間の概念があるから2つ存在する事になるだけで、時間というもの空間というものが無ければ、一人(ひとつ)の 僕(の魂)が同時(同時というのは時間の概念上です)に沖縄で独自の生活とロスでこれを書いていても、僕が2つ存在するわけではないかも知れません。
時間の概念を捨てずに理解しやすいように考えると、今、これを書いている僕が死後数年後に、また都築純として同じ両親の元に生まれ、東京でオートバイショップの店長をせずに、沖縄で暮し、白人の女性と子供を作り、基地に沢山の友達が居るという人生(修行の劇)を行ったとします。
時間の概念が有るから、「今の僕の死後数年後に・・・今度は」という事になるのですが、もし、時間の概念が無ければ、その2つ(そして、更に3つ、4つ)が同時進行していてもおかしくないはずです。
同時進行する事に無理があるのは、「時間」があるからですから・・・。
これで、パラレルワールドに対しての仮説が立ちます。(立証は全くされていませんし、立証の仕方もわかりません) だんだん、「不思議な話」が全て「当たり前の話」になってきたような気もします・・・(^。^)
